ファン・クラブ
T.祥子
1
2006/ 1/27
観測史上最大の寒波が、街を覆っていた。
陽は照っているものの薄雲が掛かり、温度計の針は低空飛行を続けている。その針は正午を過ぎても、5℃を越える事はなかった。
終業の鐘と共に、学童達は一斉に表へ飛び出した。上は濃紺のブレザ−、スカ−トと半ズボンとが、男・女を分けている。
エンジのベレ−帽には、校章をあしらったピン・バッジが付き、その交差した ” 旗 ” の色が学年を表している。1年生の女の子が数人、
喧しく通り過ぎた。 話題の中心は専ら、学期始めの席替えについてであった。
『 元気出しなよ・・・ショウコちゃん!』
『 そうよ、そうよ、あんなやつ、こんど何か言ったら、アタシがひっ叩いてやるんだから、ねぇ?みんな!』
同志達が口々に励ますも、祥子と呼ばれた少女は押し黙っている。無造作に振り回した空のランチ・バッグが、横にいる子にぶつかった。
『 あ、ごめんね?』
『 うん、平気だから・・・』
被害者はそう言うも、肘をさすりながら半泣きになった。
席替え自体、祥子は嫌いではなかった。
学期を通して肩を寄せ合っていた友達と離ればなれになるのは辛くはないと言えば嘘になるが、” 次の巡り合わせ ” に寄せる期待が
それを上回った。[ どうか、ヒロト君の隣になりますように!]
祥子は、クラスの人気者、佐々木 寛人 が第一志望であった。両親が税理士の寛人は、おっとりとした性格ながら、仲間に媚びず正義を
貫く気概を持った男の子である。ある体育の時間にドッジボ−ルをやった時、敵方の腕白坊主の一人が祥子の顔をめがけて高速球を投げた。
咄嗟に手で庇ったが、勢い余って祥子は尻餅を付いた。それを見た、これも敵方の寛人は、センタ−ラインを越え祥子を助け起こしたのである。
そして、味方であるはずの男子に食ってかかった。
『 あのね、スポ−ツにはね、ル−ルがあるんだよ!』
担当の教師は、笛を口の手前で止め唖然とし、一同は固唾を呑んだ。
『 それはね、” 当てたら勝ち ” じゃなくて、弱い者は守るって事なんだ 』
『 ”?” でもそれじゃあさ、ドッジになんないじゃん・・・』
腕白坊主は反論するも、寛人の ” 奇行 ” に圧倒されてト−ンが低い。
『 だからね、祥子ちゃんみたいな女の子が相手だったらさ、足に軽く当てるの!』
クラスの全女子が目にハ−トマ−クを浮かべ見つめる中、教師が笑いながら割って入った。
『 先生、ラインをまたいだから、ボクも外へ出ます 』
勿論、親の受け売りであろうが、それを素直に体現出来る児童は少ない。その一件を期に寛人の人気は決定的となり、今や崇拝する
女子も居る程だ。
がしかし、運命の悪戯か、今度の席替えで祥子の隣に座るのは、ドッジの時に卑劣にも祥子の顔を狙った腕白坊主、小菅 裕也だった。
隣が祥子と見るや開口一番こう、言い放った。
『 よっ、”お姫様”!今度はオイラが守ってやろうけ?』
[ イェェ〜イ!!]
遠くのシンパが声を上げる。祥子にとってこの新学期は、最低のスタ−トとなったのである。
『 じゃあね、祥子ちゃん。元気出しなね?』 [ ママァ〜!]
学友達は口々に声を掛けると、いともあっさりと駆け出して行った。向かう先は、迎えに来た保護者達の車列だ。裕福な親たちが多く、
高級車がズラリと並んでいた。
祥子の両親は、目立つことを好まない。迎えの車はいつも、車列の端の方が習わしであった。
鞄を後ろ手に持ち、祥子は膨れ面で歩いていた。
[ 裕也のやつ・・・ママに何て言おっかなぁ・・・ ]
膨れながら、車列を目で追った。いつもより車の数が多い。普段は一番端にあるはずの我が家の愛車は、前・後を別の車に挟まれて佇んでいる。
祥子はその、見慣れたモスグリ−ンのボルボに走り寄った。一瞬、得も言われぬ違和感を感じるが、祥子にはそれが何なのかは分からない。
通りに面した、助手席側のドアが軽く開いた。勢い良く開いた祥子は、中に向かって叫んだ。
『 ねェママァ、聞いてよぉ〜・・・あ!』
運転席には、見知らぬ女が座っていた。野球帽を目深に被り、濃い色のサングラスをしている。良く見れば車のウインド−も、同様にスモ−クで
覆われていた。型式や色もまったく同じ車だがしかし、ウインド−がスモ−クだったのだ。それに対する違和感を、祥子は感じたのである。
『 間違いちゃった、ゴメンなさい・・ 』
シ−トに両手を着こうとした祥子は寸でで踏み止まり、女に言った。その時、背後から強い力が祥子を掴み上げると、助手席へと押し込んだのである。
同時にドアが閉まり、女はロックのボタンを押した。
『 嶋木・・祥子ちゃんね?』
ギヤを ” ドライブ ” に入れながら、真っ赤な唇の女が言った。車内には苦み走った匂いの香水が充満し、祥子は気分が悪くなりそうだ。
ニュッと斜めに吊り上がったその唇からは、今にも血が滴りそうな感じがした。
『 お母さん・・ママは嶋木 仁美、昔、歌手をしていたわよね?』
『 ・・・だれですか? ねぇ、ママは?』
祥子の胸の名札を見た女は、答えず車を発進させた。窓外では祥子を車に押し込んだ男が後続車を制し、車道へと誘導している。
携帯を取り出した男をその場に残し、ボルボは走り去った。男は、車に押し込む時に祥子が落とした鞄をしげしげと眺めながら、携帯に相槌を拍つ。
『 ああ、終わった。チョロいもんだったぜ。後で落ち合おう 』
暫くして、もう一台のボルボがやって来た。色は、モスグリ−ンである。
ふたブロック手前で、軽い接触事故に巻き込まれてしまった。どちらも怪我の無い軽いものだったが、相手が自分の素性を知るに至り、しつこく話し込まれた
のには参った。隠し立てする気は無いが、今はひっそりと暮らしている身である。それでも場合が場合なだけに、相手に夫の事務所の住所を渡し、
這々の体で駆けつけたのだ。迎えの約束から 5分程過ぎてしまったが、歳の割にはおませでしっかりした子である。
[ ゴメンね、ママ、事故っちゃったわ ]
そう笑いながら、我が子を抱きしめてやろう。そうすればきっと、膨れるふりをしながらもあの子は許してくれる。嶋木 仁美、旧姓 三田 仁美は、そこで
待つであろう我が子を探した。
妨害工作は巧妙且つ、慎重に行われた。余りに早過ぎれば学校の担任へ連絡されてしまうし、学校に近ければ人目を引く。
ギリギリの線がタ−ゲットの冷静さを失わせ、計画実施の猶予を生んだ。たった一台、取り残されたボルボの中で、仁美は明からな異変を感じていた。
車から飛び降りるとロックも忘れ、校門へ向かって駆け出した。
2
2007/ 6/24
仁美は、校門で見かける顔見知りの子供達に祥子の所在を訪ねるも皆、既に ” 門を出た ” 、と告げる。
水澤
瞳、と言う親から聞かされた ” 生きた伝説 ” に相まみえ、頬を紅潮させながら目を潤ませる子もいた。行き違いは今までにも、何度かあった。大体は、門の近くにあるケヤキの木、その脇の鉄棒で逆上がりに挑戦する
祥子が居た。パンツ丸出しのその様子に仁美は吹き出し、遅れを詫びながら我が子を抱きしめたのだった。
が、今回は違う。得体の知れない胸騒ぎに、仁美の心はざわついた。校庭の隅々に目を向けながら、職員室を目指す。
早足がいつの間にか、小走りになった。
天井の高い”回廊”の突き当たりに、職員室はあった。
入り口で箒をバトン代わりにした女子生徒は、息を切らした仁美を見てそのバトンを吹き飛ばす。脇にあった消火栓の
赤いボックスに当たり、甲高く派手な音をたてた。そして、入り口の柱を抱きかかえると、顔だけを室内に突っ込んだ。
『 センセ、センセぇ、祥子ちゃんのお母さんっ!』
担任の阿達 貴子は、仁美の話を反芻した。
『 それで、同級の子は、祥子ちゃんが校門を出るのを見た、と 』
『 ええ、多分、忘れ物をして取りに戻ってると思うんです。それともあの子、どこかで遊んでるのかしら・・・』
現役当時、仁美のファンであったという阿達は、この緊迫した状況を楽しんでる風でもあった。
『 わたくしも、ご一緒に探しますわ・・・そうだ!』
[ どうかなさったんですか?]、と言いながら出てきた教頭の脇を、阿達は小走りで駆け抜ける。
『 ”校内アナウンス”、してみまぁす!』
仁美は、焦る気持ちを押し殺した。この女の仕草と同様に、滑稽な顛末であって欲しいと願うのだった。
女は、鼻歌でハミングを刻みながら、サングラス越しに祥子の様子を窺った。
祥子には、それが分かっている。が、驚きを恐怖が打ち負かし、それに全てを支配された今の祥子に出来るのは、
化粧品の広告に出て来そうな女の横顔をただ、見つめる事だけだった。
『 どうしたの祥子ちゃん、泣いてもいいのよ?』
意地悪そうに、女は言った。涙目になりながらも祥子は、口をへの字にして堪えている。赤信号で止まった女は、
シフトレバ−を乱暴に ” P ” に入れるとおもむろに帽子を取った。肌の白さとは対照的な漆黒の髪が、ハラリと落ちる。
前髪は、眉のやや下の辺で一文字に揃えられていた。” クレオパトラ?”、祥子がそう連想した次の瞬間、女は
掛けていたサングラスを外しリヤのシ−トに放り投げると、祥子に向き直った。瞳孔部分だけ残した、金色のコンタクト
が祥子を凝視する。縁を、赤い毛細血管がとりまいていた。
くっきりと浮かび上がった瞳孔が、祥子に眼光を注ぐ。祥子は堪らず、堰を切った様に泣き出した。
『 いやぁ・・・』
『 そうそう、そうこなくっちゃ。手間の掛かる子!』
女は、声を上げて笑った。信号が変わり、後続車がクラクションを鳴らす。舌打ちをした女は、シフトを動かすと乱暴に
アクセルを踏みつけた。ハミングが、1オクタ−ブ高くなった。
その日の夜、嶋木 邦彦・仁美 夫妻から娘、祥子の捜索願が所轄署に提出された。
嶋木一家に対し、今までも主にマスコミ達の犯罪スレスレの干渉はあった。ただ、あくまでもスレスレであって、非難の中では
萎縮して行くものが殆どだった。
両親の知名度や、犯行前後の ” 計画性 ” の匂いを見て取った警視庁 刑事部 捜査一課は、事故との二面性を精査した後、
極秘裏に捜査本部を立ち上げたのである。日本では珍しい、本物のセレブを標的にした誘拐犯罪であると共に、このところの
初動捜査での失態を重く見た警視庁は、万全の体制で臨む所存であった。
3
2008/ 1/12
見慣れた風景が夕闇に閉ざされた頃から祥子は、女から目隠しと耳当てをされてた。闇が車内を覆い隠し、外部から
不審がられないタイミングを見計らっていたのだ。祥子に与える視覚情報を遮る為の処置である。女は、周囲がまだ
明るい内は、本来の目的地とは逆の方向を走ったのである。相手が子供と言えども、周到な攪乱作戦を取ったのであった。
自分が何処かへ連れ去られる恐怖よりも、女の顔を見なくて済む事の方が有り難かった。しかし、目に当てた部分が
涙で湿ってしまい心地が悪い。祥子は、残るもう一つの苦行を如何にして封じるかに苦心した。この鼻を刺す、苦く
扇情的な女の香水が我慢ならなかった。
[ どうせなら、鼻にもマスクがほしいのに ]
希望通りに祥子が泣き出した事にご機嫌な女が、祥子のそんな思いを察するはずがなかった。この状況から
逃げ出したい。目と耳とを奪われた祥子は、必死に思いを馳せた。楽しかった事を、思い出そうとした。
両親と過ごした休日。友達と笑い転げた事。
秋の学園祭に出展する絵を祥子は、仲のいい友達の肖像画と決めた。その彼女は、祥子を描く。
祥子が描いた友の顔、その輪郭に本人がクレ−ムを付けた。” 丸過ぎる ”、という実に女性らしい注文だった。
[ アナタ、その顔はないわよっ!]
頬を軽く膨らませた祥子は、そこに ” 髭 ” を追加してやった。耐えきれずに肩を震わせている祥子のスケッチブックを、
彼女は手繰り寄せた。そして呟いた一言が、二人からリミッタ−を取り去った。
[・・・って、キモすぎでしょ ]
餌を欲しがるヒナ鳥の様に、二人は笑い転げた。次いで、叱ろうとした担任の教師が笑い出し最後は、クラス中を笑いが
包み込んだ。
[ あの時は、笑い過ぎて泣いちゃったね・・・]
踏切を通過した事を祥子は、シ−トのクッション越しに感じた。
ふいに、女の香水が強まったと感じた瞬間、耳当ての左側が女の手により乱暴にズラされた。車外の雑踏を遮り
女の、唇を開く ” ニチャッ ” 、という音が聞こえる。
『 さぁて、泣き疲れてさぞやお腹が減ったかしらね、” 祥子ちゃん ” は?』
『 ・・・ 』
” 犯人 ” は、自分の空腹具合を気にかけている。差し迫った身の危険が無い事を祥子は、本能的に感じた。
黙る祥子に、女は苛立った。
『 意地張るのもいいけどね、暫くは食べ物にありつけないわよ。それとも・・・その時は又、泣いてねだるのかしらね?』
尚も祥子は、黙っていた。” フン ”、と鼻でくくった女は、耳当てを前にも増して乱暴な手つきで元に戻した。差し迫った
危険は無いが、それを誘発させる要素はある。この女の気性、である。学校で、友達の誰かが言っていた。” 大人の言葉 ”。
人を嬲り、甚振る事に喜びを見いだす。この女の性格は正に、それに当てはまる。
[ このひとは、アタシを泣かして楽しいんだわ ]
経験した事のない大人の所行を目の当たりにして、祥子は震えた。子供の悪戯レベルではない。” サディスト ” に魅入られた自分に、
これからどんな運命が訪れるのか。今になって祥子を、本当の恐怖が襲った。
嶋木家では邦彦・仁美夫妻が、あらゆる連絡を待ちながらジリジリとした時を過ごしていた。
邦彦は次から次ぎへと、立ち回り先を思い立っては連絡しようと試みる。都度、仁美が止めた。現実的に、とても子供が一人では行けない
様な場所ばかりである。邦彦にしてみれば、何とか仁美を安心させたいが為の思いからであるのだが今や、完全に空回りし、狼狽していた。
『 お前、よく黙っていられるな 』
『 あの子が・・・お迎えをすっぽかしてそんな所へ行くはずないもの! ねぇお願い、落ち着いて』
仁美自身、落ち着いている訳ではない。腹を痛めて産んだ我が子が、邦彦と自分の良い所だけを受け継いだ様な我が子の行方が知れぬのに、
平静で居られるはずがない。ともすれば髪を掻き乱した挙げ句に発狂しそうになるのを、必死に堪えているのだった。狼狽えて騒ぎが大きくなれば
それだけ、祥子の無事を左右する。母親としての本能が、辛うじて精神の均衡を保たせていたのだった。
『 やっぱり、アレか!』
邦彦は、祥子の姿が見えなくなったと連絡を受けた時、仁美が言った事を思い出した。仁美は頷いた。
『 佐和子ちゃんのお母さんが言ってたのよ。[ お車で帰られたんじゃないんですか?] って 』
件の事情で迎えが遅れた仁美は、校内からその周辺を祥子を捜して歩いた。出くわした父兄の一人が言っていた事だった。仁美が乗っているのと、
色も形もまったく同じボルボだった、とその母親は言った。いつも見かける光景に、まったく不審は感じなかった、と。
『 誘拐されたとしか思えないのよ・・・』
この事実から二人は、早急に捜索願を出したのである。”些細な手違い”である事を望む気持ちが、思考を堂々巡りさせた。
『 ワタシだって・・・心配で心配で気が狂いそう・・』
嗚咽を漏らした仁美を、邦彦が抱き寄せた。
警視庁の刑事部 捜査一課では、本部の設置が着々と進行していた。
警視正の小田島は、捜査員に続きを促した。
『 ハイ、なんせあれだけのスタ−だった人物が母親ですから、行き過ぎた取材やなんやかやで、所轄も苦情を受けていたそうです 』
『 ここ暫く、落ち着いてたんだろうによ 』
別の捜査員が言う。
『 母親の嶋木 仁美が言っていた ” 嶋木家の自家用車と同じクルマを目撃した父兄がいる ”、と言う事ですが、裏を取りました 』
『 うん 』
『 間違いありませんでした。色も形も、まったく同じだったそうです 』
『 乗っている人物は見たのかね?』
皆の視線が集まった。
『 いいえ、普段からその・・・余り、注視しない様にしていたそうなんですよ 』
『 [ いつもの光景 ] だった、か 』
『 ハイ 』
小田島は煙草をもみ消した。
『 もし、そいつがホシで犯行に及んだのなら、相手はかなり周到だな。大事件だ。一歩やり方を間違えると、大騒ぎになって
収集がつかなくなる。その辺の初動はどうだ 』
『 所轄も、対象が対象だけに慎重を期しています。その辺は改めて・・ただ・・・』
『 なんだ 』
『 母親が当日、血相を変えて探し回ったそうです。ただでさえ、話題の一家ですから 』
『 やむを得んだろう。母親なら、誰だってそうするさ。それが当たり前だよ 』
小田島は遠・近両用の眼鏡を外し、眉間を揉んだ。
事件はその後、捜査陣も思いもよらない展開を見せた。
前代未聞、驚愕の手段によって広く、白日の下に晒される事となるのだった。
4
2008/ 1/26
翌朝から、嶋木家内部は慌ただしくなった。
尤も、外から見た分には平静そのものである。が、宅配業者の大型の荷に紛れ又、隣家の境界を潜り一人又一人と、
捜査員が集結しつつあった。嶋木夫妻から事情聴取する者、電話に逆探知機をセットする者、それぞれの担当が各自の
仕事をこなしていた。言うまでもなく付近一帯では、電線や下水管等、捜査員が扮した作業員によるあらゆる ” 工事 ”
が始められた。
カ−テンの隙間からそんな戸外の様子を窺っていた ” 便利屋 ” の男は、左手に持ったレシ−バ−に向かって話し込んで
いる。登校する学童達の声が今では、仁美にとっては疎ましい。聴取に答えながらも、そんな男の様子をぼんやりと見ていた。
『 ・・・ですから状況からして、犯人は短絡的な行動にはでないと思われます。あの・・奥さん?』
捜査員に促され、ハッと我に返る。
『 すいません・・・』
『 いえ、無理もありません。心中、お察し致しますよ。ですが、お気をしっかり持って、犯人からの接触に備えねばなりません 』
『 ・・・ 』
『 よろしくお願いします。妻は、自分を責めているんです・・・』
仁美に代わって邦彦は答えた。
『 全員、配置に着いたな。よしっ、指示を待て 』
” 便利屋 ” は、レシバ−にやや大き目な声で答えると、周囲の捜査員を見渡した。聴取を受ける仁美達に歩み寄りながら、
帽子と肩に掛けた手拭いを取った。夫妻の前に立つと懐に手を入れ、おおよそ便利屋らしからぬ仕草で名刺を差し出した。
『 警視庁 捜査一課、捜査本部長の小田嶋です 』
捜査員達は、一斉に襟を正す。
捜査本部の別班は、科警研自慢の ” 手配車両自動記録装置 ”、通称 ” L システム ” のチェックを始めていた。
事件発生当時、都内全域を走る ” '96年式 ボルボ:850エステ−ト/ダ−ク・グリ−ン ” の足取りを探る為である。
中央情報管理室内、広域交通監視システムにオン・ラインされた端末には、オペレ−タ−の脇に二人の捜査員が張りついた。
『 ボルボです、ボルボ。” '96年式の850エステ−ト ”。色は、” ダ−ク・グリ−ン ” 画像は・・このファイルだったよな?、中村 』
警部の石田は、着任したてのキャリア、警部補の中村に尋ねた。中村は携帯モバイルに映し出したボルボの画像を、あたふたと
オペレ−タ−に差し出した。ナンバ−不詳の当該車両故、マッチングの為のサンプルが必要なのだ。
『 こ、これです!』
髪を後ろで結った女性オペレ−タは、イン・カムを手で遮り笑った。石田は苦虫を噛む。
『 ・・・大丈夫ですよ。過去20年、正規若しくは平行で輸入された外国車は、殆どをサンプリングしています 』
『 オイオイ、凄いねぇしかし・・・あ、失敬! じゃ、引き続きお願いします 』
石田は先を促す。中村は頭を掻いた。
オペレ−タ−は、” サンプリング ” の画面に車種と年式を打ち込んだ。画面に、ボルボの外観が映し出される。
『 ありました。グリ−ンは・・” ダ−ク ” でしたね?』
3色もあるグリ−ン系の中から ” ダ−ク・グリ−ン ” 選び、クリックする。ボルボの外観画像に、ダ−ク・グリ−ンが反映された。
次いで ” 完了 ” ボタンを押すと、モニタ−の中のボルボは命を吹き込まれた様にクルクルと向きを変えた。更に、ひとりでに
走り出しては止まり ” ノ−ズ・ダイブ ” と、加速での ” アップ ” を繰り返す。画面の端に ” 平坦路 ”/” ドライバ−1名乗車 ”、
と点滅した。依頼された ” 開始時間 ”を打ち込み顎を軽く持ち上げたオペレ−タ−は、満を持して ” 検索 ” をクリックした。
モニタ−の中では、路線の画像が目まぐるしく切り替わっている。照れ隠しに、中村が言った。
『 進歩しましたねぇ、ハハハ・・・』
蚊帳の外の石田は、中村とオペレ−タ−を交互に見比べた。
『 暫くお待ち下さい 』
『 じゃ、一服・・・っと 』
『 ”HIT” しました 』
『 って、ええぇっ!』
腰を上げ掛けた石田は、観念して座り直した。吹き出している中村を睨み付ける。
『 は、早いもんですなぁ・・・しかし、夜間に色の判別なんて出来るんですか?』
『 ええ。レ−ザ−照射で、高感度レンズとエンジンとが・・・まぁ、未だ広範囲には普及していませんが、首都では試験稼働していますの。
ええ・・・ご指定の時間以降、確認出来る当該車両は3台で、表示は記録時間順です 』
モニタ−には、運転者とナンバ−とが確認出来る鮮明な画像が3通り映し出されていた。それぞれの画像の左上には、運転者を含めた
乗車人員数が記されている。先ほどのサンプルより路面とフロント・フェンダ−との間隙を測定し、サスペンションの沈み具合より掛かる
荷重を推測する。その計を、日本人の平均体重と相対比較しているのだった。
『 この、” 大柄な大人1名若しくは、大人1名と小人1名 ” ってのは?』
中村が口を開いた。
『 恐らく、ご想像の通りですわ。体重だけでは、それだけでは単純に乗車人数を断定出来ません。なので、可能性を列挙しているんです。
これだけは、相当に技術が進歩しないと無理ですわね?』
石田は、己の体を指摘されたが如く腹をさすった。
5
2008/ 3/ 8
一日が、これ程に長いと感じた事はない。
依然として ” 事故 ” との知らせが無い以上、翔子の失踪は犯罪が絡んでいると言わざるを得ない。心の片隅に辛うじて残していた
一縷の望みも、微塵に砕かれた思いの仁美であった。
片時も側を離れず寄り添っていた邦彦も、仁美や所属事務所との相談の上、都内での仕事に限り出かける事とした。
『 本当に、それでいいのかい?』
それでも尚、邦彦は釈然としない。何より、気持ちが収まらない。心労と怒りで苛つく邦彦に、目を赤く泣きはらした仁美は言った。
『 ワタシは・・大丈夫だから。公にしない方がいいんだったら、それも仕方ないのかもしれないわよ・・・』
『 でもな、仁美・・・』
『 お辛いでしょうが、この場は我々がお預かりしますので、どうか・・』
捜査員のこの一言に、気持ちが張りつめていた邦彦は切れた。
『 アンタ等の都合で動いているんじゃあないんだよ、こっちは! アンタに促されて行く訳にはいかないんだ! そんな事もアンタ・・・ 』
言葉の勢いとは裏腹に、邦彦の頬に涙が伝う。胸ぐらを揺さぶられた捜査員はただ、黙って唇を噛むしかなかった。
『 すいません・・・アナタに当たってしまっ・・。許して・・下さい 』
崩れそうになる邦彦を、様子を見ていた小田嶋が支えた。捜査員は邦彦の肩を宥める様に叩き、無言で下がった。クシャクシャになった襟元を、
直そうとはしなかった。
『 ご主人、気が進まなかったら、残って頂いていいんです。並の人間だったら、仕事のこと等、考える事すら出来ないのですから 』
” しかし ”、と言いかける小田嶋を、邦彦は大きな溜息で遮った。
『 いいえ。客観的に見て、ウチの ” 動揺を悟られない方がいい ”、それは承知しています。[ ハァ・・・・・] 気持ちを吐き出したら、
踏ん切りが付きました。さっきのあの方に・・・』
『 大丈夫。皆、数々の修羅場を潜ってますから。ご主人の気持ちの整理が付いたのなら、奴もそれで本望でしょう 』
邦彦はこの、頼もしい捜査員達を信じた。自信が漲る小田嶋を始め、各ポジションに着く者を一人ひとり目で追う。皆、複雑な表情ながらも、
邦彦の心中を察していた。件の捜査員は、襟元もそのままに頷いた。
『 どうも有り難う・・・後は、宜しくお願いします 』
同僚の捜査員は、仲間を労った。
三人は揃って顔を付き合わせ、モニタ−に見入っていた。
思わず近付き過ぎた中村の鼻孔を、オペレ−タの香水が擽った。ドギマギしながら徐々に、遠ざかって行く。その、インド人ダンサ−の様な
仕草を見た石田は、苦笑いする。が、モニタ−内の画がステップ毎にズ−ムされるに連れ、二人は事の深刻さに引き戻された。
『 運転しているのは、女性の様ですね・・・。助手席には、子供っ。黄色の帽子を被っています』
オペレ−タ−が言った。
『 もっとこう・・寄れますかね 』
帽子の前部にある ” モヤモヤしたもの ” を、中村は確認したかった。オペレ−タ−はキ−を打つ。
『 修正して、露出を変えました 』
” 鼻先 ” までしか写っていない ” 子供 ” が被っている帽子には、翔子が通っている小学校の校章が描かれているのが見て取れた。
『 うん、運転しているのは女だ。間違いない、ハッキリと映っている。そして助手席に居るのは、攫われた嶋木 翔子ですね 』
『 オイ、本部に ” 確認 ” の一報だ!』
石田が言った。
『 ハイ、分かりました。でも ” 女 ”って、 変装の可能性はないでしょうかね 』
中村は考え込んだ。例え子供一人とは言え、すんなりとクルマへ連れ込む事が可能だろうか。事件当時、目立った不審者やそれに纏わる
騒ぎは目撃されていない。実行犯が ” 女装 ” で周囲を欺く事自体、発想としては今や珍しくない。
『 まあ、確かにな。でも、やり方ひとつによっちゃあ、大した仕事でもないぞ?』
『 あ・・・』
『 そうさ。共犯が居りゃあ、それほど難しい事じゃあない 』
石田は、初動の基本を説いた。
『 余分な先入観や疑問は捨て、現任出来る事のみを報告する。それが遅延してはならない、ナンテな 』
『 今は、” 女 ” ですね 』
『 そうだ。推理するのは、それからだ。そして決定するのは、捜査会議の場、なんだよ 』
『 ハイ 』
『 アラ・・・』
中村が席を立とうとした時、オペレ−タ−は怪訝そうな声を上げた。
『 ん、あなたも何か?』
『 いえ・・・この人物の目、光っているでしょ? ” 赤目 ” の修正しようとしたんですけど、出来ないんです・・・』
『 つまりは?』
『 つまり、この人物の瞳は、最初から光っている、と言う事になります・・ね 』
『 なんちゅう奴だ・・・不気味な 』
ほぼ同時に三人は、同じ思いに駆られた。この様な人物に蹂躙される、幼い翔子の身を案じたのである。
そして、この様な手段で犯行を実行する人間に最早、慈悲など望めない、と言う事を。
6
2008/ 4/18
『 最近、流行の、カラ−・コンタクトか何かですかね?』
中村がオペレ−タに訊ねた。
『 さぁ・・・ご覧の通り私、この様な趣向とは無縁ですから 』
確かにオペレ−タは、色物趣味とは無縁であった。しかし、地味ながらも一部の隙も無い着こなしやその振る舞いからは、ギミックでは
補い切れない気品が漂っていた。何よりそんな彼女が、最新鋭のアプリケ−ションを自在に操る様は、ある種の神々しさを醸し出す。
『 何れにせよ、だ。こんな物を付けようって神経が、普通じゃないよ。こんな奴に、年端もいかない女の子が捕らわれていると思うと・・・
不憫でならんな 』
石田は大きな溜息をついた。
『 石田さん、確か同じくらいの姪御さんが居ましたよね?』
中村は以前、石田が警察手帳の間から抜き取って見せてくれた写真を思い出した。
『 ああ。妹の子供なんだがな、丁度この娘、嶋木 祥子と同じ6歳だ・・・』
『 ほかの手がかりが無いか、解析を進めて見ます 』
重い空気を跳ね返す様に、オペレ−タはキ−を叩く。
『 オマセでさ、” 伯父ちゃんはまだ、結婚はしないわけ? ”、なんて小生意気なクチを利いてやがるよ。おんなじ様にさ、黄色い帽子を被って・・・
学校へ行ってる 』
本庁きってのタフ・ガイも、思わず身につまされる。技術の進歩の、ある意味では残酷な側面が、モニタ−一杯に広がっていた。
『 済まん。さっ!しんみりしてばかりも居られんな。こうしている間にも、この娘の身に何が起きているのか分からんからな。気合い、入れんべ!』
” パ−ン!”、と石田は自らの両頬を張った。その余りの切れの良い音に、中央情報管理室内の他のオペレ−タ達は一瞬、肩が跳ねる。
『 そうだっ、補足した経路は分かりますかね?』
武士の情けである。愚痴は聞かなかった事にして、中村は本題に戻った。
『 ハイ、当該車両は確定しましたから、全配置端末に検索を掛けて見ます 』
Lシステムが設置された路線の中から、祥子達が乗ったボルボを捕捉した端末の番号が映し出される。
『 最初の捕捉が、” 環八2号機 ” で・・・3号機まで確認出来ました。それ以降の、4号機には該当無しです 』
オペレ−タは中村を見た。
『 最初は、攫われた小学校の近くです。合致しますね。やはりまだ、都内での潜伏も視野に入れるべきでしょうか 』
中村は気色ばむが、石田は合点がいかない様子であった。
『 まぁ、待てまて。裏読みすりゃあ考えられなくもないが、そんな感じはしないんだなぁ・・・』
『 と、言うと?』
『 お前ら若手が馬鹿にする ” 勘 ” なんだがな、この女、って言うかこの一味はだ、もっとこう・・・引き離す 』
石田独特の言い回しが、中村むらには俄に理解し難い。
『 いやさ、自家用車とそっくりな車両を用意したり、目撃者も殆ど残さない犯行の手口からして、こいつらは緻密、且つ大胆なのは分かるな?』
『 はあ・・・』
『 で、だ。その割には、何の擬装も施さずにこうして、システムのカメラに捉えられている。この女の顔を見てみろ。気のせいかこう、笑っている様に思えるんだよ 』
『 私もそのぉ・・・何かそんな気がします 』
オペレ−タが同調した。一人、取り残された感の中村は焦りを覚える。口を開こうとしたが、石田にタイミングを奪われた。
『 そんな奴らが、だ。肖像権の侵害だ何だって騒がれたこのシステムを、知らない訳がないんだよ。近頃じゃあ、ニュ−スでもやってるだろ? これで犯行後の足取りが
割れるホシも多い 』
『 はい・・・で?』
調子が出てきた石田は、中村のお惚けも気にならない。
『 キツネ、居るだろ? 狐狩りの 』
『 ま、” 狩り用 ”って訳じゃないですけど居ますね、キツネ 』
『 元は、困った貴族連中の半分、遊びだがな。で、キツネをおびき出す為に、撒き餌とも言えるウサギを放すんだが奴ら、これが ” 囮の餌 ” だって知っていやがるんだよ 』
『 猟犬で追い立てるんじゃないですか?』
『 そういう連中も居るがそれは、 ” 粋 ” が分からない貧乏貴族のやるこった。で、キツネの奴ぁ、それと分かっててウサギに食らいつき、全力で逃げ切る。楽しんでいやがるんだ 』
『 つまり・・・』
オペレ−タは目を輝かせた。
『 そう、アンタ・・・お名前は何て言ったっけ? 察しがいいねぇ。一味の奴ら、目くらましなんてセコイ手は使わない。” 捕まえてみろ!”、と言わんばかりにだな、俺たちに挑戦
しているんだよ。間違いない、あの女、キツネの一味だ 』
『 で、我々は哀れな貴族である、と 』
中村は嘆息した。
『 バぁカ、哀れんでなど居られるか。ウサギ・・嶋木 祥子は絶対、親元へ帰す!』
『 も、勿論ですっ!』
『 オペレ−タさん・・・ってのも変だな 』
『 情報管理室の、設楽です 』
『 よし、設楽さん、この先は第三京浜と東名があるね?』
『 はい、料金所の監視カメラですね。検索してみます 』
石田がそんな気になったのは、モニタ−に映し出された女の容姿に因るところが大きいが、犯行前後の経緯と照らし合わせてのベテランらしい総合所見でもあった。
そんな石田は、自身を猟犬だと思っている。喩え話しが些か横道に逸れたが、犯行グル−プの本質を見抜き、のど笛に食らいついてやる、といつにも増して力が
入った。
『 図星ならそれはそれで・・・広域になるなぁ・・・』
中村の呟きをうち消す様に、 オペレ−タは最後のエンタ−・キ−を叩いた。
7
2008/ 6/29
中央情報管理室に出張る石田達から入った一報は、澱んだ空気に包まれた嶋木邸の捜査員達にとって紛れもない朗報であった。
狙い通り、犯人の逃走経路の足がかりが掴めたからである。それと、実行犯と思しき者の特徴も捉えた。初動の段階で、これが把握
出来る意味は非常に大きい。
『 ああ、そうか・・・うん・・うん、転送は出来そうか? よし、そのまま続けてくれ、頼むぞ 』
携帯を切った捜査員は、仁美と話し込む小田嶋を呼んだ。
『 課長、本部から連絡が入ってます。定時の 』
仁美を動揺させぬ様、捜査員は気を遣う。
『 ・・ああ、分かった。そうですか、お嬢さんは正義漢が好きなんですね 』
捜査員の目線で様子を悟った小田嶋は、仁美の話しに相槌を打ちながら鷹揚に立ち上がる。
『 ちょっと、失礼しますよ 』
小田嶋は捜査員と共に、ラップトップの液晶を食い入る様に見つめた。
『 ナンバ−は、確認出来るか?』
『 ハイ・・・ですが恐らく 』
『 盗難品か偽造だろう。私もそう思う 』
別の捜査員が、ディスプレイ隅の ” 拡大 ” にカ−ソルを合わせ、二度・三度とクリックする。有機ELのディスプレイ一杯に、無機質な女の顔が
広がった。
『 整った顔しちゃいるが、何ちゅう・・・不気味な女ですな、課長 』
『 ・・・ 』
小田嶋は、ディスプレイに見入っていた。白っぽいハレ−ション気味の女の顔。その唇は、周囲の闇と同じ様に黒かった。真っ赤なル−ジュでも
曳かれているのであろうか。異様に光った目と、黒い唇。顔の輪郭は判るもののその殆どは、背後のバックレストの色と解け合って見える。
小田嶋は、子供の頃に読んだ H.G.ウエルズの ” 透明人間 ” を連想した。挿絵は無かったが、日本語翻訳版の本の表紙は、この感じと
良く似ている。尤も、ディスプレイの女は顔を包帯でグルグル巻きにしていなければ、サングラスも掛けてはいない。しかし小田嶋は、この
透明人間の記憶にリンクが掛かってしまったのである。
『・・・課長?』
『 ああ・・追跡 は、どこまで成ったんだ 』
『 ハイ、東名を小田原厚木へ分かれて、大磯の出口で確認されたのが最後です 』
『 大磯か・・・』
ここに本件が、広域捜査となる事が確定した。
捜査員達の動静がいちいち気になる仁美であったが、そこから先は思考が逡巡するばかりである。
少し前、小田嶋に話していた祥子の武勇伝を思い一時、微笑んだものの、反芻する内に、それを失ったのが全て自分の不甲斐なさのせいに思えて来る。
彼女が得意の絵をしたためたスケッチブックを手に取り、その縁が軋む程、握りしめた。
[ あの時、私が遅れずに迎えに行ってさえ居れば・・・なぜ、あんな詰まらぬトラブルになんか・・・]
悲しさよりも、悔しさが勝った。悔し涙がスケッチブックに落ちた。ポタポタ、ポタポタと。周りの捜査員達の耳に届くのではないか、と思われる程。
皆に ” 気をしっかり ” と言われ続けそれを装っていたものの、夫が居ない今となっては最早、その堤が崩壊しそうだ。いや、そうなっても構わない。
むしろそうなって、いっそ狂ってしまいたかった。
仁美のジレンマが最高潮に達しようとしたその時、居間の電話が鳴った。
逆探の担当は、デジタルレコ−ダ−のスイッチを入れる。廊下で話し込んでいた小田嶋達は、音もなく滑り込んで来た。コ−ルが3回過ぎるのを待って担当者は、
仁美に出る様、促した。
『 ハイ・・嶋ですが 』
聞き慣れた声に堪えきれず、仁美の目に涙が溢れた。
『 主人です・・・』
そう言うと、捜査員達を見回した。担当者は、レコ−ダ−のスイッチを切った。[ ガッカリした ]、と言うのが本心だが、それを現す訳にはいかない。
仕切直すつもりで、顎を引く。容疑者からの初の接触だと思っていた捜査員達は、一様に緊張の糸が切れた。小田嶋も踵を返し掛けたが、続いた仁美の
言葉に足が止まる。
『 えっ? テレビがどうしたって言うの?』
[ どうしました、奥さん ]
小田嶋は、耳が不自由な者に聞かせる様に、仁美に声のない形で示した。
『 ” テレビを見ろ ” って、主人が・・・』
仁美は憑かれた様に受話器を置くと、隅にあるテレビへと駆け寄った。久しく灯の入っていないテレビの電源を入れると、リモコンを忙しなく動かした。
幾つ目かの民放に変わった時、手が止まった。画面には ” 衝撃 ” の文字が踊り、パネルを背負ったコメンテ−タ−が何やら喋っている。
その内容を把握するに連れ、捜査員達に動揺が走った。
『 そんな・・・酷い 』
へたり込む仁美の脇に、小田嶋が立った。画面を見つめる。握りしめた拳からは、その余りにも強い力ゆえ血管が消えていた。庁内では ” キレ者 ” で通り、
文字通り数々の難事件を解決して来た冷静沈着な男が今、逆上している。
『 事実確認を急げっ!』
[ もしもし、オイ・・・仁美っ ]
サイドテ−ブルでは、聞き手を失った受話器から邦彦の声が響いていた。
[祥子] 終わり